石牟礼道子

 今は昔、たたなわる山ひだのあいの古り傾きし小屋に、女ひとりきて棲みにけり。  雲間の月いとおかしく凍みわたる夜々、ひとすじの煙うちなびくすすきが原のうえに立ちてあやしければ、五色の朝日さしのぼりて山和ぐ頃里のうばら人心地つきて、のぼりきていう。  こはいかなるやかたならん。いまはみやこへみやこへと山もひともうちすててくだりたまう世に、なにとてかくはさびしき石積みのいただきにきてかくれすみたまう。夜な夜なガゴはあらわれいでござるや。  女こたえて、笑みていう。われはただうちなる心のこひしくて、雪ふらす女とならんとこの山にきしが、世にあらわれて暮ししことなければ、かくれ住むというほどのこともなく、ガゴあらわるるときはうつしみの影のごとくなればいとやすく、おのづから喰われてぞやらむに。  里のうばらいう。何の精うけし女ならん。ガゴの方にてあやしみ逃ぐるならんと。ガゴとは現代文明の光りのもとにてはあらわるるなきこの地の物の怪のことにて、童ら夜更け語りにいう物の怪のことなり。  女、割れ鏡などに木の葉髪かきあげつつ、ようおもう、かかる色あせし世にわれは何の精うけて霧のあいだに生まるるとするならん。ふく風のさみしさにたもとをかきいだき小屋いでぬれば、豚やしないしあとならんセメントの床うつろに、雨風にうつくしく洗い出されひらひらとめくれる竹の皮の笠おかれいる。猪も食わず通りゆきしがあわれなり。  ひとたびはうち拓きて捨てたる山の石の畑には屋根なき樹の幹の柱しろしろとふし立ちのこりいて、そのもとに小指にてふるればぽろぽろとくずるる籾とおしなど、かずらにて網みし農具などたてかけ、板折れ脱けし鍬も大草鎌もさびつき、ことに女童のあそびしこけし人形など目鼻もいまだかすかにあいらしく、畑あわれに区切りたるしるしの石積みの段のかげ、冬草のあいだにひろうひともなきが、いまはむかし開拓のひとびとの夢、昼の間さえかわりてみむとまどろめど、末世の風さやさやとふきわたるばかりなり。